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こんにちは♪ ス~ジ~です♪ 

こんにちは♪ ス~ジ~です♪ 

★南の島日記

南の島日記

この日記は、友人をたずねて、フィリピンへ行ったときに
感じたことを、おりにふれて書いたものです。

私がフィリピンという国を意識したのは、ずっと前のこと。
ミュージシャンやシンガーやダンサーとして日本に来た
フィリピーノやフィリピーナとディスコなどで親しくなり、
一緒に遊んでいると、私は、とてもリラックスできるのでした。

フィリピーナたちは、家族の期待を一身に背負って、
未知の国・日本にやってきます。彼女たちは、自分たちの
ことを「ジャパゆき」と呼びます。日本語をおぼえて、
お客さまをつかまえて、お店の売り上げのノルマを達成して、
おカネをつかんで、故郷に錦をかざるフィリピーナもあれば、
6カ月間の興行ビザが切れる前に、ホームシックになって
故郷に送還されるフィリピーナもいます。特に、日本経済が
厳しくなったここ数年は、お客さまの数が減り、まともな
おカネをもらえないまま、帰国するフィリピーナも多いようです。

しかし、国内に、これといった基幹産業がないフィリピンでは、
就職できる人は、国民の一部で、しかも、給料は安い。
大家族を養っていくために、家族の誰かが外国で働いて仕送りして、
家族を養うケースが多く、フィリピン政府みずからが、
国家の政策として、外国への出稼ぎによる外貨獲得を促進して
いるのが現状です。フィリピンは、太平洋戦争の戦地になった
経緯もあり、日本の最大の支援国です。アロヨ大統領は、
1年に数回来日して小泉首相と会談し、支援を求めます。
最近は「日本の高齢社会にむけて、若い人材が豊富なフィリピンは
(看護師・介護師など)健康管理分野で最上の労働者を供給できる」
と看護・介護分野の労働市場開放を自由貿易協定(FTA)に
盛り込むよう訴えています。

こうした厳しい状況のなかでも、家族が団結して助け合い、
毎日を楽しく過ごすのが、フィリピン人の国民性。日本に来た
フィリピーナたちも、仲間同士、助けあいながら、日本での生活を、
それなりに楽しんでいます。

1999年12月末に、初めて日本にやってきた私の友人も、
そんなひとりでした。はじめて体験する寒い冬を、
なんとか耐えながら、日本語を覚え、だんだん日本の生活に
慣れていきました。彼女は、幼いときに頭に傷を負い、
その後遺症なのか慢性的な頭痛に悩まされ、不眠症でした。
小学生のときから、マーケットで働いていたようです。
運動が得意で、男の子と一緒にバスケットボールを楽しんで
いたとか。来日する前は、メトロ・マニラにあるミノルタ傘下の
日系のカメラ部品工場で生産ラインのリーダーをつとめていた
そうです。彼女に過去のことを聞くと、辛かった経験を思い出すのか、
話しているうちに涙声になってしまいます。静岡滞在中にも、
彼女に不運はつきまとい、留守にしていたアパートが火事に遭い、
全財産を失ってしまったのでした。

彼女と出会ったころ、私は、こうしたフィリピンの歴史的・
社会的背景について、それほど知っていたわけではありません。
私は、彼女の抜群の歌唱力を通じて、フィリピンの美しい歌の
数々に魅せられたのです。そして、はじめてフィリピンを訪れたのは、
2000年7月21日のことでした。

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